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治療とその選択
余命について
hiromi (香川県) 2009/05/07
患者会で毎回余命について話題があがります。
余命ってなんでしょうか?
余命を知らせるのは必要な事でしょうか?
家族に知らせる事ができない方がおられます。
どうしたらいいのかがわからず苦しんでおられます。
教えて下さい
よろしくお願いいたします。

   
Re:余命について
井沢知子(京都府) 2009/05/07
 hiromi さん
書き込みありがとうございます。
患者会で、よく出されるという「余命」のトピックスについてですが、具体的にはどのような話がでるのでしょうか。

患者さんが苦しんでおられる「余命」についてもう少し詳しく教えていただけますか

医療者側でも、余命を患者さん、ご家族に伝えることや、伝える方法、どこまでどのように伝えるかということで、悩んでいます。
Re:余命について
hiromi (香川県) 2009/05/07
ありがとうございます。

余命とはどこまで信用性があるのでしょうか?
余命の告知の必要性はあるのでしょうか?

① 医療者の中には余命をつたえっぱなし・・・の方が多いように思われます。
それは、患者に対しても家族にたいしてもです。命の限界をつたえられた後、どうしたらいいのか・・・

② 余命のつたえ方に疑問を感じています。
人間関係の成立後の余命・・・が理想です。が・・・・厳しい場面が多いように思われます。

患者は心のつながりを求めている方が多いのではないでしょうか?


同じ事を言われても心のつながり一つで納得の仕方が違ってくるのでは・・・

コミュニケーションで心を痛めています。


Re:余命について
井沢 知子(京都府) 2009/05/07
hiromiさん

ありがとうございます。
私は病院で働いている看護師ですが、余命について直接ご本人に伝える、しかも充分にコミュニケーションが取れている関係性の中で、、という医師はなかなか少ないのではないかと思います。
余命をどのように伝えるか、それは大変重く、難しい問題だと思います。私が勤めている病院は治療を中心に行う施設なので、よく積極的にがんをたたくような治療をこれ以上行わずに、病気の進行による症状や治療の副作用を緩和させる治療を中心に行うという話題を患者さん、ご家族にするだけでも、医療者はかなり対応に苦慮しています。

そもそも余命は伝えた方がよいのか、そのあたりについて、まさにこのようなことに関わっている現場の医療者の声ももっと聞きたいですね。
Re:余命について
hiromi (香川県) 2009/05/08
厳しい病状の患者さんに対しての病名の告知、余命について医療者の方々の苦悩は十分理解しています。
それをわかっている上で教えていただきたいことがございす。

患者から余命を聞かれたら宣告しますか?
どのようにされていますでしょうか?


Re:余命について
佐治(東京都) 2009/05/08
hiromiさん

大切な問題をだしていただきありがとうございました。

現場で、いつも目前にある問題です。自分もいまだにうまくお話できていません。しかし、余命に関連する情報は、患者さんのものなので、“知りたくない”という明確な意志を示されているかた以外には、お伝えすべきだろうと思っています。
お答えになっていないかもしれませんが、
現時点で自分が思っていることを意見として書かせていただきます。

残されている具体的な時間は神様以外にはわからないし、予想してもほとんどあたらない。

“宣告する”ものではないこと。

おかれている状況は理解してもらえるように機会あるごとに何回かご説明すること。

”人は、みたい夢しかみない”ことは理解すること。

生死以外の部分に、なにかプラス方向の希望を一緒に伝えること。

Re:余命について
hiromi (香川県) 2009/05/08
ご丁寧なお返事ありがとうございます。



残されている具体的な時間は神様以外にはわからないし、予想してもほとんどあたらない。

“宣告する”ものではないこと。

おかれている状況は理解してもらえるように機会あるごとに何回かご説明すること。

”人は、みたい夢しかみない”ことは理解すること。

生死以外の部分に、なにかプラス方向の希望を一緒に伝えること。



ほんとうに嬉しいお言葉です。
医療者の方々はみなさん同じ思いをお持ちだという事は十分理解しています。
ただ少しのすれ違いでお互いが心を痛めているのだと。

厳しい病状だからこそ、心を癒していただきたい。
医療者の一言・・・・
薬よりも効き目があるんです。

そして患者も感謝をしなければいけない事を・・・・


Re:余命について
上野 直人(海外在住) 2009/05/10
余命があればどうしたいか?

つまり,健康な人に,死ぬのか死なないのかを知りたいかと聞くと多くの人は知りたいと答えます。

なぜと聞くと?

残された時間を大切に過ごしたい,やり残しがないかをちゃんとしたいと答えます。

また,家族と友人も余命がみえるとコミュニケーションをとる機会を持つようにするかもしれません。

人は死にます。必ず死にます。ただ死の宣告をして,希望を取り上げるのは最低です。いつも希望をどう持たすか,

しかも,現実的に何が起こりえるかを話をしながら。
これは永遠の課題です。

ちなみに僕は余命をいいません。でも,時間が限られていること,また,進行性がんでなおらないで,厳しい状況がくることは話をします。治療はなんのためにするのかですね。ただ生きてるだけでなく,有意義に過ごすためです。

つまり,治療に専念してほしい一方で,残されている時間を有意義に過ごすためのバランスを患者とともに考えるのが癌医療従事者の仕事の一つです。
Re:余命について
hiromi (香川県) 2009/05/10
今日、地元の医療従事者とお話する機会がありました。

医療者はけっして患者を見捨てるのではない。
もう少し、ゆっくり時間をかけて話をしてあげていれば・・・と後悔ばかり・・・
忙しさに逃げていてはいけないのだが・・・

医療者の気持ちを私達患者も知らなければ・・・と強く感じました。
ありがとうございます。
Re:余命について
asya(埼玉県) 2009/06/01
私の場合、病理の結果を聞いた後、主治医が「5年先のことは考えてくないねぇ・・・。」と言いました。ちなみに乳がんでステージはⅡbです。余命5年なのか・・・と私はショックで落ち込みました。誰でもいずれは死にます。しかし、私としては死に逝く日を迎えるにあたって、「もう手の施しようがありません。」と人に言われて納得できる性格ではありません。自分で自分の腹をくくりたいのです。自分で納得、あるいは諦めて、その日を迎えたいのです。そのためには「勉強をしなくては!!!」と思いました。勉強をし始めて、すぐに気がつきました。2年前の治療に関する情報は今では古いと感じる。それでは、2年後今の情報は古いと感じるに違いない。ましてや5年後はもっと古いと感じるだろう、と。
5年というのは、本当に余命告知なのだろうかと思い、念のため1ヵ月後の診察で、「先生は前回の診察で『5年先のことは考えたくないねぇ。』と言いましたが、それは余命のことですか?がんは、5年たってぽっくり死ぬわけではないので、2~3年たって体を弱らせて寝込む日が多くなったりするということですか?」と尋ねました。しかし、主治医は無言でした。無言だと肯定していると思えます。その後診察を受ける度に「頼りないが俺流の先生」と感じ、このままこの先生にかかるのは不安だと思いました。
それで主治医を変えました。そこで{余命}について「私なりに勉強して5年とは考えにくい。あるいは考えたくない。しかし、日々多くの患者を診ていると明白な根拠は無くても、その先生なりの経験から余命は判るものなんでしょうか?」と尋ねました。現主治医によると、元気に日々を送っている今の私の段階では将来のことは判らないそうです。それならということで、血液検査やマンモ、エコーに加えて、CTやら、骨シンチといった検査を適切な頻度でやっていくことにしました。
しかし、今でもとても気になります。5年ってなんだろう?
あと3年半。日々ふとカウントダウンしてしまいます。
Re:余命について
上野 直人(海外在住) 2009/06/01
ステージIIbでなんで余命五年なんですか。死は誰も迎えたくないですが。まず事実を確認しませんか。
この先生のコミュニケーションにはかなり問題を感じますけど、まずIIbでどれぐらい余命と考えていますか?
Re:余命について
asya(埼玉県) 2009/06/02
上野先生、お返事ありがとうございました。
生存率は、病院や先生によって違うものなのでしょうか。
Ⅱbだと大体80%かなと思います。ただ5年以内に再発があると生存率が下がるとか。手術して1年半経っていて、化学療法、放射線療法とやり、今はホルモン療法です。再発はしていません。実際にステージがもっと進んでいる患者さんで元気な方にもお会いしていますし、逆にⅡaの方で手術から4年後に再発してから再々発、再再々発と繰り返し亡くなった方も居られるので、様々だと思います。とりあえず5年が一区切りかなと思っています。ただ、体調が悪いときには元主治医の言った「5年先のことは考えたくないねぇ。」が頭の中を駆け巡ります。
理屈の上では「乳がんは他のがんに比べて生存率が高く、私のステージはそれほど進んでいない。」と思っていますが、時々感情が優位に立ちます。生存率80%ではないほうに属しているんじゃないかと。
Re:余命について
上野 直人(海外在住) 2009/06/02
癌の種類の生存率はある程度一定していますが、そのデーターでさえいろんな臨床データー、分子生物学的なデーターによって多少変化します。つまり医療界ではこれをいかに正確にするかが研究の大きなテーマになっています。

つまり、これらのことを勉強しない医療従事者が適当に個々の患者の数値をはじき出すのはきわめて無責任なことだと思います。確かに生存率はガイドになりますが、決して個々の患者の絶対的なものにはなりにくいのです。すべてが予言できるなら、希望なんか吹っ飛びますからね。患者の心理はおっしゃるように生存曲線とはまったく違う観点から一喜一憂するのです。笑

僕自身は患者としてやはりどんなに生存曲線がよかっても不安が常に蘇り、感じています。むずかしいものです。
Re:余命について
asya(埼玉県) 2009/06/03
上野先生、コメントをありがとうございます。

「すべてが予言できるなら、希望なんか吹っ飛びますからね。」

確かに希望なくしてがんと戦えません。
病理の結果を聞いて、「さぁ、がんと闘うぞ。」と思っていたら、主治医が「5年先のことは考えたくないねぇ。」
これは、単に余命告知のショックだけではなく、一緒に闘ってくれないどころか敵前逃亡のようなイメージを抱いて不信感を感じ始めました。がんと闘うには、患者一人では闘えないと思います。様々な治療法を武器に医療者と共に闘うつもりでいましたが、このような主治医では、がんと闘うチームを組めません。ホルモン療法を始める際にも「5年先のことは考えたくないねぇ。」でした。もう、うんざりでした。
それで、主治医を変えました。現主治医は一緒に闘ってくれます。私としては、ようやく、がんと闘える体制が出来たと思っています。
病理結果を聞く段階で、余命を「告知」(ではなく「予言」でしょうか?)された呪縛はなかなか解けません。

「これらのことを勉強しない医療従事者が適当に個々の患者の数値をはじき出すのはきわめて無責任なことだと思います。」

上野先生のように考えてくださる先生に最初から当たれば良かったんですね。本当にそう思います。
私の生活、私の人生、私の命。がんなんかに負けたくありません。医療者には矜持を持って、患者と一緒にがんと闘っていただきたいと強く思います。

上野先生もがんと闘っていらっしゃるんですね。
不調法ですが・・・お互い元気でいましょう!!!
そして、お大事にしてください。
ありがとうございました。
Re:余命について
上野 直人(海外在住) 2009/06/03
お互いにがんばりましょう
Re:余命について
kumiko(東京都) 2009/06/10
私は30代の医療者です。最近進行がんがわかり、根治は難しいこと、5年生存率20-40%、2年を越せるかどうか厳しい・・と説明され、数ヶ月に渡る治療をしました。

がんの診断、5年生存率の低さには驚きませんでした。しかし、2年という数字は正直ぐっときました。ショックでしたが、それよりも「とにかく時間がない」という気持ちが先にたちました。その日から、時間の密度が変わりました。

やっておきたいことを明日に伸ばさない、無駄なことに煩わされない、普通に暮らせる今のありがたさを噛み締めるようになりました。一番悩んだのは、大切な人たちにこの事実を伝えるかどうかでした。

2年越せないかもという説明は、余命告知と感じました。確かにショックでしたが、元気なうちに、自分に時間がないことを教えてもらえ、私は良かったと思っています。
自分に遺された時間を、納得のいくように使えます。体力も気力も衰えた終末期に余命告知されたなら、大切なことを伝えてもらえなかった怒り、後悔、死の足音への恐怖が一度に押し寄せ、苦しんでいたかもしれません。
病状説明には一定のスキルが大切でしょう。気遣いや一緒に頑張ろうという姿勢は、患者を勇気づけます。

人によって異なると思いますが。
私の場合、病名や余命の短さよりも、がんをわずらったと噂する周囲の目や、治療に関連した副作用、機能障害を抱えながら生きていくことの方がはるかに苦痛でした。
Re:余命について
上野 直人(海外在住) 2009/06/10
病気に周りに告知するかどのように生きるか。簡単なこたえはありません。
僕が病気になったときにみんなに送った手紙を公開します。
______________________
皆さんにお伝えしなければいけないことがあります。
先日私はがんと診断されました。

がんと診断されると誰もが困惑すると思いますし、実際に私の頭が真っ白になりました。
ご存知のように、私は冷静で自分をコントロールすることができる人間と自負しています。
しかし、1月14日にがんの診断がくだったときは、覚悟はしていたのですが、そのショックは予想以上のものでした。
私は腫瘍内科医ですので、特に多くのことを知りすぎてますから、なおのことでした。
知っているということはこんなとき何の助けにもならな いですね(笑)。

今回、知識以上に多くのことを学びました。それ は理論で片付けられることではないということ、
そして私が何らほかのがん患者と変わらず、不安から向かうべき人生の方向を見失いそうになったことです。

14日の晩、長い眠れぬ夜を過ごしたあと、私はいつもどおり職場に行くことを決めました。
これはクレイジーな考えに陥ることを避けるためには私にとっては有効な一つの対処法でした。

なんと、翌火曜と水曜日には外来をしました。
また、火曜日には、日本のNHKの取材があり、そこで「がんと診断された患者さんにその人生をいかに勇気付けるか」、
また「バッドニュースをどのように話し合うか」を記者にインタビューされたのです(笑)。
このことは自分を見つめて話をすることができ、とてもいい頭の整理になりました。

私はこの自分の状況を運命として受けとめています。
未来がどうあろうとも、今はともかく、がんと闘っていきます。
この体験が、医師、研究者、そして人間として、より私を成長するように導いてくれることを望んでいます。

既に米国で一緒に働いているほとんどの仲間に、私のこの新たな状況を伝えました。
私は皆さんにも私の状況を知っていただきたいと思います。
この数週間は、精神的にも肉体的にも休息が必要かもしれませんが、
いかなる状況においても私は200%のエネルギーを持って復帰するつもりです!!

皆さんから私の健康状況を尋ねていただくことをいつでも歓迎します。
私は何にでもオープンなコミュニケーションが大事であると信じています(笑)。
噂話は何の役にも立ちません。
そして皆さん、どうか私を普通に扱ってください。
「気を遣う気持ち」はありがたく思います。でも、癌患者にとって「普通に扱ってもらえない」ほどつらいこともないのです。

私の大切なTeamOncologyプログラムそしてアンダーソンにおける臨床活動と研究活動をこれまでどおり続けることが、
精神混乱状態から私を救ってもらえるものと信じます。

そしてこれまで以上に、私の家族、友人、両親そして培ってきた、患者さんと研究に対し、愛しく接していきたいと思います。
今後もしも私に支障がきたすようなことがあったときには、すぐにお知らせしますし、皆さんに助けを求めると思います。

既に今そうさせてもらっています。助けを求めたら助けてください。

最後に私の最新の状況をお知らせします。

私のがんは、左大腿部上皮にできた肉腫、悪性線維性組織球腫(MFH)です。

そして手術が必要なことから本日手術を受けました。

私の医療チームは万全です。なんとDr. Feigが主治医で、執刀医です。不思議な縁ですよね。
Dr. Feigは偉大な外科医のタイトルに加えて今や私のパーソナルなメディカルコンシェルジェに任命されました(笑)。

ほかにもDr. Benjamin, Dr. Madewell、Dr. Diwan、Dr. Riben、Dr. Fanning、Dr. Fornage、そしてANP、看護師、ケースマネージャーなど、
多くのメディカルプロフェッショナルが私を支えてくれています。

これまでの皆さんの厚い友情と心からの支援に深く感謝しています。

そして、これからも変わらぬお付き合いを願っています。

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本当は直接伝えるのがいいのですが米国在住と言うこともあり、メールになりました。おもしろいことに日本人のほとんどはすぐに返事をくれませんでした。とってもかなしいきもちになりますね。疎外感を感じるというか。もちろん受けては気を遣っているのですが。でも必ずしも癌患者がどうとらえているかとは言うのは別問題であるということにきずいてない人が多いです。

頑張ってください。
Re:余命について
kumiko(東京都) 2009/06/10
上野先生、貴重なお手紙をありがとうございました。

悩んだ末に、大切な人には自分の口から、悪い知らせを伝えました。シェアするという感じの伝え方です。
今は迷いなく過ごせています。先生のようにお手紙にするのも素敵ですね。
Re:余命について
hiromin(香川県) 2009/06/11
上野先生

お手紙を拝見いたしました。
伝える事の大切さを強く感じました。
そして感謝を伝える事

伝える事とは感謝をする事なのですね。
心が篤くなりました。
ありがとうございました。
Re:余命について
asya(埼玉県) 2009/06/11
上野先生
お手紙の公開をありがとうございました。
どのような事でもどのような時でも自分の考え、思いを伝える事は大切なんですね。どのような時でも感謝を伝えられるということは、人と人との関係をいつも大切にされている事が伺えます。感動しました。
Re:余命について
上野 直人(海外在住) 2009/06/11
そうですね。告知をするというと、一方的な感じがします。大切なのは、情報を共有し、共鳴できるかだとおもいますよ。それでも、共鳴を言葉として表現としないと、まして物理的にあってなかったら、気を遣っているというのは相手は伝わりません。
Re:余命について
sakura(大阪府) 2009/06/12
上野先生へ
時々こちらをのぞかせていただいているものです。いつも真摯に答えていらっしゃるのを尊敬しておりました。
今回のお手紙はいつものまっすぐな先生の気持ちが伝わりました。私も同じことを思ってました。私は乳がんを患い先日手術をしていただきました。がんという告知を受けてからは今までまるで考えてもいなかった自分の死を思ったり、これからどうやってがんとうまく生きていこうかと思っています。余命についても5年10年といろいろ調べてみたりしていましたが私は知らないことが一番怖いです。余命を先生から告げられたら、きっと泣き続けると思います。でも心から信頼している私の先生はきっと私の涙には慣れていて泣くとわかっても教えて下さるのではと思います。(私はよく泣いているので、笑)それだけ私は知らないことのほうが恐ろしいとおもっていることを先生がご存じだと思うからです。私は今そういう心から人として尊敬し、信頼している先生に診て頂けている幸せをありがたく思っています。
上野先生のまっすぐな助言でたくさんの人たちが救われていると思います。
どうかこれからもお体を大切にされてご指導よろしくお願いいたします。
Re:余命について
ひかり (北海道) 2009/06/12
kumiko先生、上野先生、とてもデリケートなお話をしていただきありがとうございます。

kumiko先生の投稿で
>私の場合、病名や余命の短さよりも、がんをわずらったと噂する周囲の目や、治療に関連した副作用、機能障害を抱えながら生きていくことの方がはるかに苦痛でした。

ここを読んだ時、すぐ上野先生が『ヒーローの肖像』でお話されていた事を思い出しました。

>患者になって一番辛かったのは、他の人が、「上野はもうあまり仕事ができないだろう」
と決めつけているのではないかと感じたときです。

>心配してくれているのでしょうが、「上野はもうだめだ」と思われているのではないかと
想像すると、気持ちがいいものではありません。


医療従事者の方は、同じような考え方をするものなのかなと思いました。
そして上野先生なら、患者としても絶対kumiko先生の思いが理解でき、的確なアドバイスを送ってくれるんじゃないかと思っていました。

私も何か伝えたいと思いながら、投稿できませんでした。
だから今日上野先生のコメントを読んで、何だかホッとしました。
それにしても、プライベートなお手紙を一般用の掲示板に載せてしまう上野先生、いつも「裏表なく・・・」と話されていますが、先生は本当に正直な方ですね。(失礼致しました)
Re:余命について
伊藤高章(大阪府) 2009/06/14
 とても大切な話題を展開してくださり、ありがとうございます。スピリチュアルケアに携わっている伊藤高章です。
 拝見しながらずっと考えていたことがあります。一番最初にhiromiさんが「余命ってなんでしょうか?」と問いかけてくださった、そのことです。

 「余り」の「いのち」という意味で、「余命」なのでしょうか?しかもその長さが問題? 私は、告知されるまで若しくは治療が出来ている間がマトモな命で、それ以後は「余り」だなんて、そんな表現は絶対に受け入れたくありません。
 ではどういう意味?
 確かに治療の状況が厳しくなってくると、自分自身の命に向ける愛おしさは格段に増してきますし、親しい人との関係が有限なものであると感じられて、しなければならないこと、したいことが押し寄せてきます。寂しさや離れがたさがつのり、苦しいです。そもそも、こんなふうにまとめてしまえないような、いろいろな思いが渦巻いています。
 なんでこの時期のことを「余命」というのでしょう?

 私の勝手な解釈は、この「余」は、時代劇の将軍などが「余(よ)は・・・である」などというときの、一人称単数「私」を示すことばであって欲しいということです。
 誰でもいつかは経験する人生の限界を、現実に突きつけられてしまうと、大きな課題に直面します。そのうちの一つは、<これからの時間は、周りの人や状況や立場に左右されるのではなく、自分自身で考えて、これまで身につけて来た力に頼り、自分の持つ優先順位を大切にしながら、改めて「わたしのいのち=余命」を過ごす時期なんだ>という課題です。
 何でも自分で決める、という意味ではありません。信頼できる方にしっかりと自分を委ねる、というのももちろん大切な一つの選択肢です。
 そのためにはいろいろなサポートが入って、自分らしく生きられる支援が得られればいいな、と思います。

 「余命=わたしのいのち」を過ごすために大事なのは、その長さではないと思います。長さを語るのではなく、医療者が提供できる、別の大切な支援があると思っています。
 医療者はその豊富な経験から、病気の進行過程を熟知しているはずです。いわば、その病気を抱えた人のたどる病状の地図です。優れた医療者は、患者とだけでなくその病気との対話を重ねる中で、その患者さんのガンがたどる可能性の地図を持っています。そこには、患者の特性、ガンの個性、治療の特徴、薬の作用や副作用、不自由や痛みの出現やそのコントロール、などの可能性と、その患者の病状がたどって来た道筋が描かれています。検査の結果は、一つ一つの曲がり角かもしれません。回復してこの地図を「上がる」人も多くいらっしゃれば、その病気の地図のなかで人生のゴールを迎える方もいらっしゃいます。
 その地図を歩む早さは人それぞれで、誰も正確なタイムテーブルは描けません。
 「余命=わたしのいのち」を生きるためには、出来るだけ早く患者はこの地図を説明してもらい、自分の居る位置を知っておくのが大切なのではないかと、多くの患者さんとお話しする中で感じています。いわゆる告知をされる前から、自分のがんの道取りの様々な可能性を知り、医療者と一緒に曲がり角一つ一つを大切に通って行きたいと思います。
Re:余命について
上野 直人(海外在住) 2009/06/15
裏表がなく医療行為を医療従事者としてすることはとても大切です。人の命を守る仕事は倫理の統一を図るひつようがあります。でもこれって言うのは簡単だけど大変なんですね。なかなか自分でも難しいです。(^^)
Re:余命について、(>_<)
上野 直人(海外在住) 2009/06/15
Sakuraさんへ、泣くことは良いことです。泣くこと、つらいことは自分でもありません、なんでこんな状況になってしまったのかとおもいますね。70歳とかで元気な人をみるとうらやましく思います。自分は後何年生きられるのだろうとか、訳わからない発想します。

自分の死を見つめることは医療従事者としてとても大切なんだと思いました。自分の人生を見つめることができない、あるいは死を見つめることが出来ない人は医療従事者としての大切なものをまだ、見つけてないかも知れないです。
Re:余命について
mico(東京都) 2009/06/15
こんにちは。
私は乳がん転移患者です。
また、父を肺がんで亡くした経験のある者です。
以下、私の個人的な思いを書かせていただきます。
転移しているとはいえ、本当に深刻な場面にいらっしゃる方よりも恵まれた体調ではあります。そのため、ほかの方に配慮を欠く表現があるかもしれません。
その場合は、どうぞお許しください。

私は、仕事で米国本社への転勤が決まり、長年おつきあいしていた方(この人は日本で仕事を持っているので、一緒にアメリカに移住する予定はありません)と入籍した途端に病気が発覚。術前化学療法と手術、ホルモン療法を経て、体調が落ち着いたのを見計らって昨年春に渡米しました。渡米後は、アメリカへの転院がうまく行かず(「すでに主治医がいるから」(=日本の病院です)という理由で拒否されました)、3ヶ月おきに日本に帰る生活を繰り返していましたが、昨年末の検査で骨転移が発覚。現在は日本で経過を見ています。幸い自覚症状もなく、むしろ体に一層気を使うようになったおかげで、ロードレースに出たりなど、今は前よりも元気にしています。

この後の生き方をどうするか。
今の生活のあるアメリカに、大切な家族との別居を前提に、未だに治療体制が組める見通しもたっていない中で戻るのか。
それとも、いまや生活の拠点を作るところから始めなくてはならない日本に戻るのか。
家族、治療、今後の医療費、仕事。生活の場として家を借りるなら、せめて財産になる住宅をローンで買った方がよいのではないだろうか。では、いったい自分は何年ローンなら払い終えることができるのか...。
当然余命のことは考えずに生きることはできません。
父のときも、実質一人会社の会社経営者だったため、命のリミットと普通の生活との選択は、残酷なことにも常に考えざるを得ませんでした。

私の場合、一般的な乳がんに関する解説によると、10年生存率は2%とも言われています。平均生存期間は 2 年程度だと理解しています。化学療法などもしてきた上での転移ですから、ひょっとすればその 2%、2 年はさらに少ない数字になるのかもしれません。

しかし、この数字にひきずられてはいけないと思います。
この 10 年の”98%”のうちには、たとえば、高齢で発病されてお元気でも10年はご存命でなかったかもしれない方、もっと体力のない状態で病気の治療に立ち向かうことの許されなかった方も含めた数字です。
さらに、病気が進行した時期は、私自身の生活は決して体によいものではありませんでした。ということは、仮に転移がわかった時点での自分の生存率が 2% を切っていても、その数字は個人レベルでは上げられる可能性がある、ともいえるのではないでしょうか。変な言い方ですが、例えば、水回りを汚したままにしていれば、悪臭もおきればカビも出る。そのままにしておいてさらに薬を流してもすぐに状態は悪くなります。一度丁寧に掃除して、水を流して、磨いて、毎日それを続けてやれば、そうすぐには前のような荒れ果てた状態にはならないはず。そんなイメージで、自分の体をいい状態に保ってやれば、簡単にそのまま悪くせずに済む可能性はまだまだあると思っています。余命というのは、一般的な場合に、その体の現状で訪れうる時間である、と受け止めています。

そして、上で書いたような、ぐるぐると自分が自分の未来の時間を考えている間に、テレビでは死亡事故のニュースが流れています。たったさっきまで余命のことなど思いもしなかった方が、思いがけない事故で私よりも先にこの世を去られていくのを見ると、余命というのはあくまでも参考の数字であり、たまたまこの病気でつきつけられるだけのことであって、すべての人がそうと知らずに「余命」を生きているのだ、と知らされます。

私は今、来月の数値が落ち着いていたら、渡米する予定でいます。
もしどうやっても数ヶ月の命、という状況なら、自分の体がわかるはず。そのときはもちろん日本にいる家族と一緒に過ごします。
が、ひょっとしたら20年生きるかもしれない。というよりも、そうあれるように今健康に生きる努力を最大限しているのだから、20年を「明日死ぬかも」と毎日思い悩んで今のせっかくのいい時間。痛みや死のことを考えて生きるのは、本当に痛みや死が訪れるときにとっておいて、今の時間は普通に生きよう、と思っています。
そして、私にとって、もし病気がなければやっていたであろう人生は、「あと数年はアメリカでやりがいのある仕事をし、貯金を作って、数年後に日本に戻ってきたら田舎で在宅で仕事をしながら自分で育てた野菜を食べて過ごす」というもの。今は、体の声を敏感にききながら、可能な限りはその道を選び、その道を選べることを自信にして生きていきたいと思っています。
父が、家族に「普通にしていて」といっていた言葉を思い出します。
彼も、そのときの体調の中で、最も彼らしい「普通」な生き方をしていました。
病で命を終えることがあっても、私たちは生き方まで差し出す必要はないのです。

余命を知る方が良い人、良い状況、良い伝え方というのは千差万別です。
しかし、適切な医療を理解した上で選択し、自分がそのときベストだと思える生活を選択していくにあたって、酷ではあっても欠かせない土台になる場面があることも事実です。
もし「たまたま知らされてしまった」場合には、どうかいい形で受け止め、その余命の「一般的な参考数値」をいかにいい状態で伸ばしていい時間を分かち合うか-ご本人の余命を他人事と捉えず、自分自身にもある余命として捉え、その余命の重なり合う時間を共に過ごすことで、すべての人がいい命を全うできると信じて、正の方向へエネルギーを転換していただけたら、と思います。
そして、もし、ご本人の性格から状態から、余命を知らせることがどうしても酷だと思われる場合は、伝えないことを選ぶのもよいと思います。後で伝えなかったことを後悔することもあるかもしれません。が、伝えないと決めるときは、そう判断する自分とその方とのつながりの強さを信頼してください。

私の父の場合は、ペインコントロールのために退院の予定もたてないまま入院したこと、その後脳転移がわかり「治療ができない」といわれたことが事実上の余命告知だったと思っています。その後3ヶ月ほどして、家族はあと2-3日の可能性がある、と伝えられました。本人には伝えることはできませんでした。最後に体調が悪化する前日の夜まで、普通に映画を見たりして過ごしていました。
その翌日体調が悪化しました。その前からアメリカに一時帰国していた妹は(不安だったのですが、予定を変更することは父に余命が短い可能性があることを知らせてしまうかもしれないから、と「普通にして」いたのです)間に合いませんでした。最後の薬を投与する直前、部屋に駆け込んだ私を見て、言葉も手足も不自由になっていた父は、はっきりと私の名前を呼び、強く抱きしめました。
そのとき、父は、自分の命を知っていたのだ、と悟りました。その手前で右往左往していた自分のおろかさを知ると同時に、すべてを越えて普通に生きた父を尊敬しました。

答えはありません。が、その人を、その人を愛する自分を信頼して、余命を告知するかしないかを責任を持って選択したら、あとはその選択をベストの形で活かしていくのが、できることではないかと感じています。
Re:余命について
kumiko(東京都) 2009/06/15
<これからの時間は、周りの人や状況や立場に左右されるのではなく、自分自身で考えて、これまで身につけて来た力に頼り、自分の持つ優先順位を大切にしながら、改めて「わたしのいのち=余命」を過ごす時期なんだ>という課題
→伊藤先生、私の感じたこと全くその通りでした。うまく言葉にできませんでしたが、先生が述べてくださってすっきりしました。また、上野先生の「仕事ができないんじゃないかと周囲に思われる怖さ」もよくわかります。


当たり前ですが、患者になってみてわかったことは、驚くほど沢山ありました。以前から「ガン患者さんがたどる可能性の地図」を作りたいと思案してましたが、今回、自分の闘病経験から確信しました。今、少しずつ作り始めています。
病気になった経験を仕事に活かせるので、私はラッキーです^^
Re:余命について
伊藤高章(大阪府) 2009/06/15
mico さま

ご投稿、拝見しました。
ある意味で、大変難しい状況(どこで誰と暮らすのか? ガンと共に生きながら、どうやってやりがいのある仕事を続けるのか? 等)を抱えながら、一つ一つに自覚的な決断をされながらお過ごしなのですね。
数字にも惑わされず、「痛みや死のことを考えて生きるのは、本当に痛みや死が訪れるときにとっておいて、今の時間は普通に生きよう、と思っています。」という意志をお持ちのことも、しっかりとうかがいました。
日本でお過ごしになるのか米国でお過ごしになるのか、治療費の問題をも含めて、複雑な選択なのでしょうね。ご決断が、よい方向へと繋がっていますよう、祈っています。

大事なお父様を看取ったときのご経験、またお父様ご自身の生き方が、今のmicaさんを支えていることも伝わってきます。
Re:余命について
伊藤高章(大阪府) 2009/06/15
kumiko さま

「ガン患者さんがたどる可能性の地図」は、とても大切なものだと思います。
 今日、仲間とこの件で、某社の『◯◯の歩き方』を真似て、しっかりした医療監修がありながらも、実際にその地図を歩いておられる方たちやそのサポーターの投稿で、道の険しさや、休憩の仕方などが具体的に載せられたものがあるといいね、という話をしていました。

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