掲示板「チームオンコロジー」

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患者と医療者のコミュニケーション
東京タワーと余命
上野 直人(海外在住) 2008/05/13
「東京タワー」―――、ドラマの中で主治医が患者の家族に余命を伝えるすがたががとても悲しく思った。
余命、3ヶ月、その次は3か日、など 患者は余命を知ること、医療従事者は伝えることが重要みたいな感じ、まるで儀式、また本人ではなくその家族にまず伝える。
これが良い医療なんだろうか。
僕は現実を知りたいが余命を知りたくない。なんでだろう。
生きていく希望?
医療従事者であるので余命て直感でわかることもあるけど、本当の個々の患者の余命はそれぞれ違う、だから具体的な数値(期間)よりも、残されて人生をどのように過ごすかがもっと重要かもしれない。
多くの患者はそれを考えることなく、上手な死に方のタイミングを失っててします。健康なときに自分の死の迎え方を準備するのは良いことだと最近よく思う。

   
死について考えること
谷山洋三(大阪府) 2008/05/16
ターミナルケアを志す医療者に対しては、「まずは自分の死生観を確認せよ」と言われ続けているようですが、実際にはその大事なことを考えることなく現場に突入する人が多いようです。毎日のように患者さんの死に出会い、悲嘆とともに死を見つめるという、苦しい日々を送ってしまうことになります。

健康なうちから死について考える、一人称、二人称の死について考え、準備する、ということは、死を避けることのできない私たち全員(医療者に限らず)にとって、大切なことです。日本では、ホスピスの普及とともに「死の準備教育」もゆっくりと普及し、初等教育においても死について考える授業を模索している教師たちもいます。

とはいえ、死が現実から遠くなって「三人称」になってしまった現代人・文明人にとっては、一人称、二人称の死を考える機会はなかなか与えられません。若い僧侶の中にも、死について考えたことがない、という者がいて、同じく僧籍をもつ者として恥ずかしい限りです。

「考えている人」が、人々に余裕を持って考えてもらう機会を提供することが必要なんでしょうね。でも、押し付けになってしまうのもよくないし、このあたりのバランスが難しくて、死の準備教育の普及をしようという教育者や研究者の悩みどころになっています。
Re:東京タワーと余命
上野 直人(海外在住) 2008/05/16
谷山さん、まったく、同感です。

自分の死の迎え方をとらえることを考えたこと無い医療従事者は困ります。
自分自身の死をとらえることが出来ない人がなぜほかの人の死のプロセスに関わることが出来ることがでしょうか。

私たち人間はいずれ死にます。死があるので生が存在するのです。
この死をとらえることに直接関わる仕事が一番多い一つとして医療従事者があります。医療従事者の教育を考え直す必要があるのかもしれません。

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